かわらばん

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かわらばん入居版81号 2011年2月

SIC歴史のはじまり vol.2
   SICの歴史「SIC1号館誕生」
 1998年4月の人事異動で人生の転機に出会う。
それは、相模原市産業振興課への人事異動で産学共同研究開発支援施設整備の業務を言い渡された。この施設整備プロジェクトは、山本副主幹(現SIC専務取締役)がプロジェクトリーダー、小俣主任(現㈱クリエイト代表取締役)が支援事業の企画、そして私が施設建設を担当した。
 配属後直ぐに山本副主幹、小俣主任の両名が準備していた地域若手経営者の検討会に参加した。そこでは、施設の是非を問う会議が行われていた。「箱もの行政はやめて欲しい」、「産業界が使いやすい施設を」などの意見が交わされる中、その言葉を聞いた。
「施設をつくるならばそのお金を研究開発資金として市内中小企業に配布したほうが良い。」
その言葉に、市職員として11年間の自分の考えの甘さに気づいた。
ある経営者が言った。「施設をつくるならば、われわれ企業人が経営陣として参加でき、事業スピード、市場性ある事業展開を行える株式会社を採用すべきである。」
これが株式会社さがみはら産業創造センターの始まりである。

 施設整備に対して、様々な意見があったが、相模原の産業活性化を図りたいとの地元経営者と行政の思いが一つになり、整備が進められた。
SICの経営ビジョン「私たちは、この相模原の大地に 新しい風を起こし 産業の息吹を育み 新しいビジネスの創造を目指します」には、当時のSICを支えてくれた人々の思いに応える誓いが込められている。
 当初3年間を予定していた施設建設も1年間で完成する。地元経営者と行政で構成された役員会で次々と会社の重要事項が決定される。その中でSIC1号館の設計は2ヶ月半で完成する。
この限られた期間の中、担当役員であった江越取締役(元地域振興整備公団)、権田取締役(権田金属工業㈱)、設計会社、事務方で構成された施設検討会ではローコスト、パフォーマンス、スピードを重視し、決めた方針が「機能を絞る。迷ったら採用しない。」であった。
このことが、後に年間400を超える視察者から「無駄を削り取った骨太のインキュベーションセンター」と絶賛される結果を生んだと思う。

 設計、工事が進む中、入居企業の応募を始め、多くの経営者が面談に訪れる。
「私をSICに入れないとSICは最大の損失になる」と話をされた経営者を今も鮮明に覚えている。入居希望者全員が事業拡大に向ける熱い情熱を持っていた。
 オープン間もなくの数年、SICは365日24時間電気が消えることがなかった。
安藤IM(現チーフインキュベーションマネージャー)とともに夜遅くまで1号館で仕事をしていると、入居企業の皆さんが入れ替わりオープンなカウンター越しに声をかけてくれた。仕事の話、家族の話、趣味の話などをしたことが懐かしく思い出される。「仕事は進まなかったけれども、今日も入居者の方と楽しい時間を過ごせた。」と、夜遅く交わした安藤IMとの会話が今も忘れない創業の思い出である。
 企業の成長支援を通じ、SICも共に成長できると信じ、「できることをしよう。やれることに挑戦しよう。何かできるはず。」と生まれたばかりのSICでスタッフ一丸積み上げてきた。
「SICを卒業し、大きく成長した企業が、次の企業を育てる仕組みをつくりたい。」
昨年、SICの卒業企業が株主になった。SIC1号館に植えた果樹が実を結んだことを実感した。
 12年が過ぎ、経験も積み重ねてきた。新しい風も吹き始め、SICはさらに成長をしていくことだろう。しかし、これからも、この原点を忘れてはならない。